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1992年5月

さて、(2007年7月)現在最新の日記と同時進行で15年前の日記を書いているのですが、
それというのも、1992年5月に中津川で行われた勉強会に参加したことが
中山道に興味を持つきっかけになったからでした。

勉強会の会場は中津川の中心部から木曽川を挟んだ山の中腹にある研修施設で
公立だけあって宿泊費が安く、食費も(今考えると)高くはなかったのですが
参加費が申し込み時の一括払いでその当時金欠だったので
宿泊だけ申し込んで食事は外で取る事にしました。

もちろん、食事を出来る場所が近くにあるかどうか分らなかったのですが
1990年の暮れに購入したMTBがタイヤとサドルが簡単に外せるタイプの自転車で
輪行(袋詰めにして電車で運ぶ)をしてみたいとずっと考えていたので
この機会に自転車を持っていって移動手段に使おうと思いついたのでした。

もっとも、研修施設が不便な場所にあること自体勉強に集中できる環境である訳で、
自転車を持ち込んだことは、そのことに風穴を開けてしまうことになります。
結果、勉強会の講義には半分くらいしか出ずに近辺をツーリングしまくった挙句、
専門とは関係ない中山道にのめり込む事になってしまったのでした。


中山道に興味を持った理由として
母親の実家の近くや当時通っていた大学の前を中山道が通過していて
もともとある程度の関わりがある道だったということがあります。

また、中山道は東海道と同様に東京と京都を結ぶ道ですが
京都には研究集会で度々訪れていたので、
今回、東京と京都の中間地点である中津川を走ったことに
何かの因縁を感じたことも確かです。

が、中山道に興味を持った最大の理由として
この道が一線を退いた道である、と考えたことがあります。
(もちろんこの見方は、中山道のほとんどの箇所で正しくなかったけれど)

というのも、日記にも書いたのですが
中山道を走る前の日に廃線となった北恵那鉄道を探索していて
中山道も当初、失われた道を探すノリで走ったからです。

以下数日間の日記には中山道とは直接関係ない記事も含まれますが、
書くことによって記憶を辿ろうとしたので
とりあえず、そのままにしておきます。

(2007/6/26, 2007/7/24修正)

1992年5月19日

名古屋経由で中津川駅まで輪行。
木曽川を渡り研修施設まで自走。
橋の上から鉄橋の跡があるのを見る。
自転車でやってきたのを見て施設の管理人に
名古屋から自走してきた大学生もいたと言われる。

研修施設は苗木という所から登った山の中腹にあったが
麓に食料を調達できそうな店を見つけることが出来ず、
昼は中津川まで往復。1時間半かかる。
勉強会の昼休みの間に往復出来ないことが判る。

施設の玄関に周辺の地形図を
張り合わせたパネルが飾ってあったが
近くに廃線になった鉄道が通っているのに気付く。
来る途中に鉄橋跡を見たことを思い出す。
中津川が起点だとして鉄道がどこまで延びていたか気になる。
夕方、下山して国道を中津川と反対側に走り、
福岡町という町の本屋に入りロードマップを立ち読みするが
詳しいことは判らず。翌朝、探索することを考える。

(2007/5/28)

1992年5月20日

朝6時過ぎに出発して並松という集落に下る。
地図を見て駅だとふんだ場所に行ってみたが
やはりホームの跡があった。
そこから線路があったと思しき地形をたどって移動を開始する。

鉄橋を自転車を担いで渡る場所もあるが
線路跡をたどるのは比較的容易。

美濃福岡の先で鉄道跡を見失い
当りをつけた道を走るが結局国道に出てしまう。
そのまま進むと、その先でまた鉄道跡を発見する。
帰りに見失った区間をたどったが
国道の西側の渓谷を鉄道は走っていた。

鉄道は結局、付知という町の入り口まで続いていることが判る。
終点の駅舎は当時バス停として流用されていたが、後に解体されたそうだ。

このまま、引き返してもよかったが、
折角なので、少し足を伸ばして下呂まで行くことにする。

2つ峠を越えて下呂に到着。
一通り見て回った後、駅方面に行く。
駅前と温泉街をつなぐ橋の上から露天風呂が見える。
おそらく地元の老人がゲートボールをした後に入る為の簡易的な風呂で
橋の上から丸見えだが、既に客もいることもあり入ることにした。
この人たちは車で下呂にやってきたそうで、先に風呂を上がったのだが
帰りに峠のレストランで休憩している所に追いついてしまい驚かれた。

研修所に戻ったのが午後1時過ぎで、午前の部を完全にサボってしまった。

午後の部も1時間出たきりでまた外出する。
研修所の南にある苗木(赤壁)城址を見に行くためだった。
苗木から、隠れ里の様な城下町の坂を上り城址に着く。
遊歩道を一通り回った後、苗木遠山資料館と前田青邨記念館に立ち寄る。
城址内の広場のような所で薪能があることを知る。
滞在中にやるようなので、無料なら見に行くことにする。

(2007/5/30)

1992年5月21日

馬篭・妻籠

朝、6時半に研修所を出発。
中津川に出るが、旧道には出ず、国道を東に進む。
落合という所から入り、中山道を走る。
いきなり急坂になるが、MTBの性能を信じて乗車したまま上る。
そのうち石畳の道になったので、さすがに押した。

石畳が終わり長野県内に入る。
一休みしようと自販機でジュースを買おうとするが、
電源が入っていないのか500円硬貨が戻ってくる。
2、3度試すうちに硬貨が引っかかってしまった。
実はこのときの所持金がこれしかなかった。
結局、湧き水を飲んで移動。

さらに坂を上り馬篭に到着するが、
入り口に時間外通行禁止の札を見て迂回する。
(後年確認したところ昼間車両通行禁止という札を見間違えた様だ)

宿場の裏手を見ながら移動。
宿場の上の方で旧道と交差したところから、坂を上る。
実は以前、家族と馬篭に来たときに馬篭峠というのがあるのを知り
宿場が峠までずっと続いているのではないか確認しようと思ったのだった、
坂はそのすぐ先で終わっていた。
頂上の民家が街道の上に建っていて、軒先を迂回していた。
いったん坂を降りて舗装路と合流。
そこからさらに上り、馬篭峠に着く。
このときは峠の前後に遊歩道があるのを知らず、車道を使った。
下る途中、雄滝・雌滝の入り口から遊歩道に入り、草道を下る。
大妻籠の古民家を訪ね、妻籠の入り口から帰路に着いた。

ダム湖沿いの国道を戻るが
途中、照り返しがひどく、危うく脱水症になるところだった。
午前10時前に帰る。

午後および夜、どこに出たかは覚えていない。
中津川の街に出たことは確かだが、他に苗木城址に寄った様な気がする。
(2007/6/9)

1992年5月22日

この日の午前中にどこに行ったか記憶が定かではないが
おそらく、中山道を落合から中津川市街を抜けてインターチェンジまで走ったと思う。
(この日でなければ前日の午後に走ったはず)
この間の道筋は屈曲もアップダウンも激しいのだが、逆に楽しかったのを覚えている。
所々に「歴史の道」の道標が建てられていて、道を見失うことも無かった。
ちなみに、この道標は判り難いと不評な(だった?)様だが、
これは中津川駅から出発したとき、どの道が中山道か判らない
(現在は駅前に案内板が出来た筈)ためだと思う。

このときは、中津川インターチェンジで道を見失ったので一旦出直すことにした。
現在は、案内板が建っているので迷うことは無い。

午後、地図を見て当たりをつけ、インターチェンジから西の部分を走る。
現地に行くと確かに中山道であった。
雲行きが怪しく(小雨が降っていた)、恵那市との境界まで行って引き返す。

夜、苗木城址に薪能を見に行くが、
雨で会場が市内の文化会館に変更になったと掲示があった。
文化会館まで行くが中に入らず引き返す。
城址で見ることに意義があると感じたのもあるし、
本当は有料のイベントのような気がしたから。

(2007/06/27)

1992年5月23日

勉強会最終日。
午前中の講義はまじめに聞く。
昼に解散したので、自転車で中津川駅に向かう。
東京に戻る途中名古屋(金山)の友人宅に寄る。
前もって連絡してあったので、知り合いを何人か呼んでくれていたが、
着いた時には酒盛りが始まっていて、すでに出来上がっている人もいた。

(2006/06/28)

1992年8月

1992年5月に中津川から戻って以来、
東京から京都まで中山道をツーリングしたいという思いで
熱に浮かされたようになっていた。
その一方、中山道がどこを通っているのかについて
当時インターネットも普及していない上に
ガイドブックの類も絶版になっていて
調べることは出来なかった。

かろうじて、百科事典に五街道の宿場町の一覧が載っていたのと
大学の図書館で全国の1/25000地形図を閲覧出来たので、
地図上で宿場跡と思われる集落を探し出し、
集落間の道を中山道ではないかと想像して過していた。

そうこうしているうち、実際に道を走る機会が訪れた。
知り合いのイラストレーターが、
仕事で出張していた長野県内でスケッチ会を催すことを知り、
それに参加するついでに中山道を走ることにしたのだった。

中津川の時にはカメラを持っていかなかったので、今回は持って行くことにした。
カメラは当時弟から借りっ放しの Pentax Zoom70 を使っていた。
当初は現在のような写真を撮るつもりは全く無く、
単純に旅先の写真を撮る積りだった。
(2007/8/13)

1992年8月8日

前の日に実家に到着。
明るくなってから出発するつもりだったが、
移動距離が距離だけに明るいうちに向こうに着くか
親が心配して朝3時に起こされる。
3時半に狭山を出発。
川越を経由して朝5時に桶川から中山道に入る。

鴻巣まで問題はなかったが、鴻巣の街を過ぎた後

いつの間にかバイパスらしき道を走っているのに気付く。
とりあえず、そのまま走る。
熊谷まで来ると中山道に合流した様だった。

熊谷の先、国道から旧道と思しき道が分岐していたのでそちらに行くと
一里塚があったので撮影する。
植木一里塚
これが中山道を撮った最初の写真になった。
ついで、近くにある忍領境界石を撮る。
他にも気になるものは多かったが、時間の関係で先に進む。
ここより埼玉県内を旧道と目星をつけていた道を進んだが、
この道は旧中山道とほぼ一致していたことが後に判明した。

神流川を渡り、群馬県に入る。
ここまで来て少し余裕が出たのか、移動のペースを落として写真を撮る。
まず、復元された見通し灯篭、ここから新町の旧道に入り
新町八坂神社、諏訪神社の参道、高瀬屋跡の碑、小林本陣跡の標柱、弁財天。
弁財天の先で分岐を右に行かずに新道を進んでしまうが、
これは仕方なかったかも知れない。

烏川を渡り、岩鼻で旧道と合流。この時点で午前8時過ぎ。
バイパス沿いにコンビニを見つけたので地図を見るのと休憩を兼ねて立ち寄る。

倉賀野:例幣使街道追分、旧家、脇本陣、高札場跡、安楽寺
高崎:本町一丁目交差点
ここから道を間違えて、国道354号を進んでしまう。

君が代橋を渡る。
橋を渡ってからは、ほぼ正しい道を進む。
豊岡:若宮八幡神社、道端の庚申塔、茶屋本陣
国道18号に合流して堤防上を走る。

安中市に入る。
八幡宮鳥居
板鼻:閻魔堂跡石仏群、本陣跡標柱、
中宿:一宮街道道標
安中市街に入り、安中城址に寄り道。
碓氷郡役所跡、高札場跡、脇本陣跡、便覧社跡、愛宕神社、原市杉並木標柱
原市村戸長役場跡、高札場跡
八本木地蔵堂、郷原日枝神社、自性寺、妙義道常夜燈

松井田町
五料平:二十三夜塔、双体道祖神
この先、梨子の木には行かず、国道を走る。
五料御所平:双体道祖神
横川:矢野沢石仏群、碓氷関所跡
原:水神宮
坂本宿街並

とリストアップしたが、この時は撮影したそれぞれの場所に
じっくり立ち寄ったわけではなく、ただ一瞬の休憩という感じで撮影した。
ただ、これ以外にも道筋に気になるものを多数目撃している。

坂本から先、旧国道を上り霧積温泉への入口付近の食堂で休憩。
ここで、午前11時過ぎだったと思う。
地図上で目星をつけていた道の入口まで行くが、やはり旧中山道であった。
ここから遊歩道を登る。
遊歩道は最初の方がガレていて急坂だが
一旦尾根まで上ってしまうと後は自転車で乗車して登れなくもない程度の勾配だった。
この間、案内板ばかり撮影している。
堂峰番所跡、柱状節理、刎石坂の大日尊、上り地蔵下り地蔵、弘法の井戸
四軒茶屋跡、堀切、座頭コロガシ、山中部落跡、笹沢施行所跡
子持山付近も旧道の分岐に気付かず和宮道を上っている。

午後2時過ぎに碓氷峠頂上に着く。
ここから車道を下って軽井沢に入るが、宿場跡は旧軽井沢の目抜き通りで
オシャレな格好をしている人たちの間を、泥だらけで自転車を押して通過するのは、
何とも気恥ずかしい。
雨が降り始めた。別荘の間の道を走っている時、スリップして転倒する。

碓氷峠から中軽井沢を過ぎて古宿の二十三夜塔を撮影するまで、写真は撮っていない。

追分:一里塚、浅間神社前の燈篭、高札場跡、本陣入口

分去れから下っていく。この辺は家族旅行の時、車で走ってもらったことがある。

小田井宿入口、脇本陣跡、本陣跡
ここからしばらく写真を撮っていないが、用意したフィルムが少なかったためだと思う。

佐久市内(岩村田)では何も撮っていない。

浅科村
塩名田宿入口の道祖神碑、御馬寄の一里塚、八幡宿本陣跡

望月町
百沢の道祖神、瓜生坂の一里塚、瓜生坂頂上の石仏、
鹿曲川橋際の碑(望月駒の里)、間の宿茂田井入口、茂田井高札場跡

立科町
茂田井一里塚跡、芦田脇本陣跡、笠取峠マツ並木標柱

ここから中山道を離れ、国道254号線を宇山方面に入り坂をを下る。
このとき自転車のスピードが時速60kmを超える。
そのまま国道を進み、武石村の実家に午後7時に着く。
昔バスを使ったときには、延々と坂道を上っていく印象があったが、
自転車で上るのは、思ったほど辛くなかった。

この日は全部で200km以上走った。

(2007/8/16)

1992年8月9日

この日は旅行の当初の目的であるスケッチ会に参加した。
確か午前10時半に戸倉駅で待ち合わせだったので、武石を朝7時には出たと思う。
大屋まではほとんど下りなので1時間くらいで着いた筈。
そこから戸倉まで国道を走ったと思うのだが、記憶にない。

スケッチ会は、戸倉から千曲川を渡った佐良志奈神社で行われた。
今では考えられないことであるが、スケッチはおろか写真を一枚も撮っていない。
神社内をくまなく見て回った記憶がある。

スケッチ会の後、戸倉駅まで戻って解散。
二次会をやった記憶はない。
喫茶店くらいには入ったかも知れないが、未成年の参加者がいたこともあり
飲み会にはならなかった。

私はというと、また橋を渡り千曲川沿いの自転車道を上田方面に戻る。
途中、水路を鴨の親子が泳いでいたのを見た記憶がある。
武石に戻る。往復100km走った。

(2007/7/16)

1992年8月10日

東京に戻る。

武石村の実家から下り、和田峠を越えるつもりでいたが
前々日笠取峠を越えなかったのが気にかかったので
長久保まで出てから一旦東京方面に戻ることにした。

長久保:枡形、釜鳴屋、旧本陣、松尾神社
ここから笠取峠を上る
笠取峠(1992年)
この頃は峠はまだ拡幅されていなかった。

さらに峠を下り、一昨日の場所まで行って、そこからまた引き返した。

長門町から和田村に入る。
和田村内は歴史の道の道しるべが充実していたのでほとんど迷うことはなかった。
三千僧接待碑、若宮八幡宮、和田宿入口、かわちや、本陣跡
(資料館に立ち寄る)
高札場跡、大出一里塚跡、荒井馬頭観音

和田峠の旧道(遊歩道)に入る。
三十三体観音、接待、避難小屋、広原一里塚、東餅屋、古峠

和田峠を下る。
下諏訪側は道が狭く、杭が無ければ道を見失いそうだった。
ようやく、国道に出る。
西餅屋一里塚の看板が事故でグシャグシャになっていた。
西餅屋一里塚看板
フィルムを使い切ってしまったので以後の写真は無いが、
峠を下りきって下諏訪に出、そのまま甲州街道を甲府方面に走った。
なるべく旧道を走るようにはしたが、下調べをしていなかったせいもあり、
部分的にしか見つけることが出来なかった。
-------
2009/6/15追記
旧道は北杜市白州町教来石の付近しか走っていない。
-------
韮崎に着いた時点で夜7時を過ぎていたので、
駅前でサイクリストがテントを張っているのが気になったが、
自転車をバラして電車で東京に戻ることにした。
-------
2009/6/15追記
この日の事だったか記憶がはっきりしないが、
中央線の電車に乗って東京に戻る途中、
目の前のドアが故障で閉まらなくなった。
一旦は停車して点検を行ったが、終点まで一駅ということもあり、
ドアが開いたまま高尾まで移動したのを覚えている。
-------
この日も移動距離は100kmを超え、3日で450km走ったことになる。

今回の旅ではっきり自覚したのは、
新しい道と古くからある道には、はっきり違いがあること。
新しい道は確かに走りやすいが味気が無いこと。

出来ることなら、昔の中山道だけを使って京都まで行ってみたいと思った。
さらに、旧道沿いに史跡・石仏・寺社を多く見かけたことから
これらのものの存在が道の古さの傍証になるのではないかと考え、
街道沿いの古くからある物を撮り集めたいと考えるきっかけになったのだった。

(2007/8/16)

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